「僕は行く。君が行くと言うならね」
「え? ちょっと待って、それって」
「君は、まだわかってはいないみたいだね」
「へ?」
「僕にとって、君がどれほどに大切な存在なのか、君はまだわかっていない」
その声は寂しそうでもあり、憤りでもあり、怒りでもあり。
実際、瑠駆真の胸にはさまざまな感情が吹き荒れた。
「美鶴、何度も言わせないでくれ」
いや、何度でも言うさ。何度でも。
「僕には君だけだ。他にはなにも無い」
「瑠駆真、あの」
「君はまだわかっていないのか? どう伝えればいい?」
「あの、別に私は」
「別に? 別に何だ?」
「別に私は、瑠駆真の気持ちを理解していないワケでは」
「だったらくだらない事を言うな」
「くだらないって」
「前にも言ったはずだ。君の進む道が、僕の進む道なんだ」
「瑠駆真、あの、落ち着いて」
「落ち着けると思うか?」
携帯を通して、呼吸の乱れが伝わる。
「できるものなら、今すぐにそっちへ飛んでいって、面と向かって訴えたいくらいだ」
そうして抱き締めたい。
「やめてよ」
「だったら、変な事を言わないでくれ。とにかく、ラテフィルへ行くか行かないかは、君次第だ」
「そんな。私は関係ないよ」
「関係の無い君を巻き込む事については申し訳ないとは思っている」
「だったら自分で決めて」
「それはできない」
「そんな」
「美鶴」
熱を帯びた、婀娜っぽい呼吸に名前を乗せる。
「君がどこへ行っても、僕は付いていくよ」
もう絶対に離れない。
「これだけは覚えておいてくれ」
そうして瑠駆真は、一方的に電話を切ってしまった。そうしなければ、本当に気持ちが抑えきれなくなって、美鶴のマンションへ飛んでいってしまいそうだったから。
勢いで切ってしまった。せっかく、美鶴の方から掛けてきてくれたのに。
そう思った途端、急に未練が湧き上がる。着歴から掛けようとして、だが思いとどまった。勢いよくソファーへ投げつける。ポンッと、間の抜けた音。瑠駆真はグッタリと項垂れた。右手で額を押さえる。
美鶴、どうしてわかってくれないんだ。僕の基準は君なんだ。何をするにしても、どう行動するにしても、決め手になるのは君なんだよ。君がすべてなんだ。それだけなんだ。
苛立ちにクラクラする頭を押さえながら、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けた。だが、ペットボトルは入っていない。
夕方に飲み干してしまっていた。
喉、渇いたな。
少し頭でも冷やすか。
上着を羽織り、外へ出た。
思ったよりも寒くはなかった。春はとにかく予測ができない。昼間はポカポカ陽気だったからといってそれが夜まで続くとは限らないし、コートが飛ばされそうなほどの強い風が吹いていたのに、夜になると気味が悪いくらいにパタリと止んだり。
まぁ、暑い寒いというワケでもないんだし。
上着のポケットに手を突っ込んで歩き出した。だが、その足は数歩のところで止まってしまった。
嘘だろ?
思わず口に出して呟きそうになる。円らな、夜闇に溶けてしまいそうなほど黒々とした瞳を丸くする。そんな相手の視線に軽く唾を呑みながら、緩はゆっくりと一歩前へ出た。
「偶然、ですね」
「偶然か?」
「本当に出てきて下さるとは思ってはいなかったので、お逢いできたのは偶然だと思います」
「だが、待ち伏せしていたという事実には変わりないよな」
「どうしても、お聞きした事がありまして」
「お礼の次は質問か。いろいろと忙しいね」
状況がある程度理解できると、瑠駆真の口の動きは滑らかになる。
人によっては皮肉とも取れる言葉を、だが緩は心をトキメかせて受け止めた。
なんておもしろい言い回し。頭の回転が早い証拠だわ。他の人が言えばただ気障なだけの言葉も、瑠駆真先輩が口にするとサマになる。
やっぱり、王子様だからかしら?
王子様。やっぱり、王子様として、いずれは国へ帰らなければならないのだろうか?
ドギマギとする心臓をなんとか落ち着け、呼吸を整える。
「お時間は取らせません」
「手短に済ませたいのなら、前置きなんていらない」
素っ気無い物言いですら、魅力的に聞こえる。
「お国へ、帰られるという噂は、本当ですか?」
「は?」
「ラテフィルという、祖国へ帰られるという噂は、本当ですか?」
祖国。
違和を感じる。
だが、そんな瑠駆真の小さな疑問など吹き飛ばすかのような内容が続く。
「花嫁を連れて、祖国へ帰るというお話は、本当ですか?」
花嫁を連れて。
ふと、瑠駆真の目の前に白い布が揺れた。
長くて、柔らかくて、少し透けていて、まるでウェディングドレスにでも使われていそうな優しい揺らぎ。薄く零れる向こう側で、美鶴がゆっくりと瞬きをした。
「花嫁候補を探しているというお話は嘘だとおっしゃいましたよね? 私は、先輩がそう言うのなら嘘なのだと、信じていました」
「嘘だよ。あんな噂、信じる方がくだらない」
「でも、話はどんどん広がっていって、もう花嫁は決まったのだから探す必要は無いのだとか、それに、夏休みには先輩が中東へ帰ってしまうのだとか、そんな噂まで広まっています」
「夏休み?」
「はい。私の同級生が話を聞いたのだとか」
実際には又聞きだが。
「話を聞いた? 誰に?」
「誰にと言うか、先輩と黒人の付き人が話しているところを、ちょっと」
黒人の付き人、ねぇ。
憤慨するメリエムの顔を想像し、瑠駆真は少しだけ口元を緩める。
「夏休みには行くだとか、行かないのだとか」
聞かれていたのか。
だが瑠駆真は、不愉快だとは思わない。
自分たちが見られていた事くらいは知っている。会話を聞かれていても、おかしくはない。
「あまりにも具体的過ぎて、思わず信じてしまいそうになるんです」
夏休みにラテフィルへ来いと、メリエムに言われている。瑠駆真はそれを拒否している。
言い争うところを聞かれたのかもしれない。だがそれが、こんな形で広まるとは。
自分が、花嫁を連れて祖国へ帰る。理想の女性を求めて各地を彷徨った王子が、最高の相手を見つけて国へと連れて帰る。そんなところだろうか。
悪くはないな。
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